加藤一二三「一二三の玉手箱」(毎日コミュニケーションズ)


一二三の玉手箱

一二三の玉手箱


原則として、このブログでは読んでよかったと思った本しか取り上げない方針なんだけど、今回はちょっと例外。

先に言っておくと、加藤一二三九段のファンだ。
将棋の中身はもちろん、その強烈な個性も、面白く見させてもらっている。お金を払ってでも見たいと思わせる、数少ないプロ棋士の1人だ。きっと将棋がよくわからない方でも、著者に人間的魅力を感じるひとは多いんじゃないかと思う。


だからこそとても残念だ。
企画が加藤九段の強烈なキャラクターに完全に頼り切っていて、編集者が編集者としての仕事をした形跡がまったく見えない。


文章については、百歩譲って文体を最大限尊重して、あえて手を入れなかったと解釈してもいい(だとしても編集者が何もしないでいいわけではないけれど)。
しかし、この「編集されてなさ加減」はそんな次元じゃない。
著者に思い出の対局の数々を振り返させるのなら、なぜ時系列に並べるよう誘導するという最低限の手間を惜しむのか。
「熱闘譜」と題された章に並ぶページの、この寒々しさはどうか。まさに「載せただけ」。ページに工夫をこらす意識がびっくりするほど無い。何枚も付けよとは言わないが、せめて投了図や勝負どころの盤面はあってしかるべきではないか。また、番勝負ならそれが全体の中でどういう意味を持つ一局なのか等、当然付加すべき情報があるだろう。単純に並べるだけと割り切るつもりなら、時代がいったりきたりするのは何故なのか。
書き手のプロでない著者の責任は薄い。編集の問題だと思う。ここまで熱の入ってない編集は珍しい。


ネットで「加藤一二三伝説」が局地的に盛り上がっていると聞く。出版サイドの加藤氏を消費しようという思惑は覆うべくもない。一方で、著者と将棋に対する思い入れはまったくと言っていいほど感じられない。ファンにとっては悲しい1冊になっている。


著者と将棋に対して、普通に愛情を持った編集者の手になる次の一冊を待望する。