綿矢りさ「夢を与える」


夢を与える

夢を与える

前の2作、とりわけ「蹴りたい背中」は鮮烈な小説だった。世間で評判になった随分後になって気まぐれに読んで、大いに驚き、魅了された。そんな作者の久しぶりの新刊。世間的にも期待が高い。
けれども、違う意味で驚かされた。別人の作品のよう。残念だけども、あまり良くない意味で。


扱っている世界が世俗的だとか、エンディングがキツいなんてな評もあるみたいだけど、それらの点は別にあんまりひっかからなかった。

そんなことよりも、何を置いても首をかしげさせられまくったのが、登場人物の造形だ。


半ば狙いなのだと解釈しておくけど、これがもう不思議なくらいステロタイプなのだ。
口にする言葉、起こす行動、人格を象徴するだろうエピソードの引っ張り方、そして各人の関係性――。その多くが「どこかで見た感」で溢れていて、その意図をどう読めばいいのかが最後までわからなかった。主人公の夕子のキャラクターの新しさを評価する書評を目にしたが、とても共感できない(読み手の問題かもしれないですが)。


前作「蹴りたい背中」の主人公や「にな川」は、現実にどこかにいそうでありながら、しかしあまり描かれてこなかったタイプで、各人の微妙な個性の浮き立たせ方もさりげなく秀逸だったし、何よりもそうした2人の関係性の描写の繊細さが鮮やかで、その瑞々しさに打ちのめされた。

この作家のそうした魅力は、しかし、本作ではまったくと言っていいほど表に出てこない。所属事務所の社長やタレント仲間、学友、マスコミ人などの脇役がそうなのはまだしも、主人公の次に重要な登場人物であるはずの、主人公の母親の造形の意外感のなさは、逆にびっくりだ。この陳腐さを作者が自覚していないとはとても思えない。「ありがち」と思われる可能性の高いキャラの“母親”をあえて書くのには、それなりの書くべき理由が作者の内側にあったのか、などと推測するのも虚しい。当たり前か。


脇役はまだしも、なんて軽く書いてしまったけど、それは比較対象としての話で、キツいものはやはりキツい。
象徴的なのは、最終ページ近くの取材後の記者とカメラマンの会話、そして最後の一文に至るあたり。「手垢にまみれ感」が相当高いと感じるのは筆者だけだろうか。ほんと、ちょっとどうしたんだろう一体? 周りはなにも言わずにこれでOK出したということなんだろうか?
(蛇足だけど、この「週刊誌」取材場面の描写の甘さは指摘されていいと思う。
母親が夕子に説明する際の「週刊誌だけどね」の一言と、「週刊時勢」という物語上フィクションの雑誌名が挙げられているほかにはこの「週刊誌」の性質を示す描写がまったく無いことの2点からは、作者が数多ある「週刊誌」という媒体を単色で捕らえているか、または、「週刊誌」の性格を書き分けることでそこから何かを読者に感じさせることに興味がないかだろう(この2つは同じことかもしれない)。でも、わかりやすく言うと、読み手は具体的な固有の「週刊誌」を仮想定できれば、それを元に状況全体に想像を及ばせるわけで、例えば、「週刊文春」と「SPA!」と「週刊女性」では母親がその媒体をチョイスせざるを得なかった「追い詰められ加減」や乗り込んできている記者の「飢え具合」などの読み手側のイメージの幅が全然違ってくるんだけれども、そこら辺への作者の関心は薄いようにみえる。
これは作者がインタビューなんかで「自覚している」と述べていると言われる「世界の狭さ」の問題ではなくて、取材結果を作品に落とし込む際の作業工程の問題じゃないだろうかと思うんだけど、どうだろう?)


もう1点だけ、この作品で困ったと感じた点があって、それは時間の流れのスピードの書き分けについて。この作品はトータル20年以上の年月を綴っていて、小説としては当然ながら、1ページで半日しか進まないところもあれば、何ヶ月も何年も進むところもあるわけだけど、そのあたりの書き分け方に強い違和感があって、どうにもスムーズに読めなかった。中途半端な時代描写(終盤はおそらく「いま」なんだろうけど、主人公が中学生あたりまでは、いつの時代だこれは?てな感じの時代性の無さだったように思う)も一因なのかなとも思うが、ちょっと理由がよくわからない。これは技術の問題だから、大きな心配事ではないけど、この作品ではのどにつっかえたのは確か。


この作品は脱皮の過程のようなものだと評する声を聞いた。そうなのかもしれない。ので、もちろん次回作には期待したい。
でも、次の作品がこの続編だったらちょっといやだ。無いと思うけど。続編のありそうな終わり方のように感じたのは、さすがにうがち過ぎかな?


蹴りたい背中

蹴りたい背中