山本譲司「累犯障害者」(新潮社)


累犯障害者

累犯障害者


例えば、知的障害者精神障害者による殺人や傷害、放火などといった重犯罪が報じられるたび、無知をさらけ出すようだが、何らかの公的機関や過去の通院先、福祉の場などで、何かしら、そうしたことを予防するような手立てを講じられないのだろうか、そういう社会的な枠組みはないのだろうか、などという程度のことを、かなり漠然とだが感じていた。
こうしたとき、心情は9割以上、被害者側にあるように思う。統計的な数字はわからないが、被害を受けられた方々に特段の理由がない、いわば無差別的に被害を受けているようケースが少なくないように思われ、となると、自分の家族がそうした犯罪に巻き込まれる可能性にどうしても頭が行ってしまう。
そのため、冒頭のような思いにつながる。ほぼ半反射的に「何とか防げないのだろうか」という憤りとやるせなさに近い感情が湧いてしまうわけだけれども、ただ、この瞬間のこうした批判はまったく非建設的、原始的なそれだ。現実的にどういう策がありうるかという知識もなく、福祉や行政、司法の現場で関係者がどのような苦労をされているかを想像できる力もない。批判めいたことを思いながら、その対象を特定することすらできていない。なぜ特定できないかもよくわからないし、どこから知識を得るべきなのかも見当がつかない。圧倒的に知識が不足しているのだろうと思う。

本書の著者は元国会議員で、数年前に秘書給与詐取により実刑判決を受け、服役。02年8月に出所したという。
この秘書給与搾取事件は連日マスコミを賑わしていたし、その後もたまたま何かの折に、比較的重い印象のあった実刑判決に著者が控訴しなかったことや、同様の罪を追求されていた別の代議士から“より悪質なのはこちら”的批判を受けていたこと、その随分後になってからその批判の根拠がまったくの嘘だったことなどを報道で目にすることがあった。が、当然のようにすぐに忘れた。著者が出所後にどのようなことを生業としていたかなど、知る由もなかった。
(蛇足だが、上記の事案についての「別の代議士」の言説はある意味記憶されていいと思う。自らの失点を糊塗し、批判の焦点をよそにずらすため、世論的には反論がほぼ不可能な状態に陥っている人物をさらに貶めて攻撃を加えることは、たとえその攻撃材料が事実だったとしても、公的な立場にあるものがとるべき行動とは思われない。ましてこの場合はその材料自体が悪質な捏造だった。ここまで酷い話はそうはないと思う)

著者は服役中に、同様に収監されている障害者と接する機会を持ったことなどから、刑務所に安住の地を求めて犯罪を度々繰り返す障害者の存在を知ったことを契機に、この問題への取り組みを始めたという。

テレビを中心とするマスコミの多くが、その犯罪が障害者により引き起こされたことが判明すると報道を手控えてしまうこともあって、そうした犯罪の背景やそこから浮かび上がる政策的課題などまでは一般レベルにはなかなか伝わってこない中、本書は既存ジャーナリズムが忌避してきたこの問題に真摯に向き合おうと試みている。
恥ずかしながら比較対象を承知しないので一部態度は保留しなければいけないし、随所にみられる断定的な論調には(おそらく著者は文字にはしていないもっと深い情報に接しているのでその結論が導かれているのだと思うが、それは読者には十分に伝わっていない部分があるので)すべてに同意することは到底できないが、そんなことは一義的にはどうでもよく、まずこのテーマを広く世に問うたこと自体に極めて高い価値があると思う。

個人的にも、内容的にも得るものが多かった。一般的に知られていることかどうかはよくわからないのだが、恥ずかしながら、例えば「婦人保護施設」も「デフ・ファミリー」も、本書を読むまで知らなかった。被告が聴覚障害者や知的障害者である場合の裁判の実情を知らなかった。「レッサーパンダ事件」の被告のおかれていた環境やそれを公的な福祉がすくいとることができなかったこと、民間の団体が関係者のケアに尽力したことを知らなかった。特に4章と5章には相当の衝撃を受けた。
もちろん本書に書かれていることは現実のうちのわずかなことにすぎず、「知る」ことができたといえることはそうでないことに比べれば微々たることに過ぎないだろう。もしかすると「実態はそうではない、本当はこうだ」という類いの批判もあるかもしれない。それらを差し引いても、本書から得られるものは小さくない。

手元にある本書は9刷とある。実売部数まではわからないが、それなりの売れ行きなのだと思う。刺激を受けた読者も少なくないのではないだろうか。
どんどん著作を出してほしいと思う。