中島美代子「らも 中島らもとの三十五年」(集英社)

らも 中島らもとの三十五年

らも 中島らもとの三十五年

20歳代前半に一番沢山読んだのは、中島らも氏の文章だったかもしれない。

「変!!」、「獏の食べのこし」、「こらっ」などのエッセイ本は、導眠剤がわりに何遍読み返したかわからない。悶々とした夜には「愛をひっかけるための釘」をよく手にとった。「恋は底ぢから」に掲載されている「その日の天使」と「チビの女神さまへ」の2編は落ち込んだ心を何度も支えてくれた。

小説も初期のものを中心によく読んだ。「水に似た感情」の前半のロケから“地獄のミーティング”までは何回読んでも飽きない。「人体模型の夜」や「ガダラの豚」をはじめて読んだときはその才に驚愕した。「今夜、すべてのバーで」は人に勧めて、あげてしまっては買い直し、今本棚にあるのは確か4、5冊目のはずだ。


いつの頃からだろうか、新作が滞るようになり、発表されるエッセイの雰囲気も随分変わり、受ける刺激が減り、気がつくと氏の新刊を読まなくなっていた。同じ頃(95、6年頃だったと思うが)新宿のスペース・ゼロかどこかで「リリパット・アーミー」を観て、その著作との落差に(これはらも氏の責任ではないけれども)ひどくがっかりしたことなんかもあった。それでも前掲の各書をはじめとする既刊のものは相変わらず好きで、ときどき引っ張り出してきては読み耽った。そうした期間が何年か続き、自分の中で中島らもは過去の作家という位置づけで落ち着いた頃に、氏の訃報を聞いた。ある時期にリアルタイムで熱狂した作家の死を経験したのは初めてのことだった。


本書はらも氏がエッセイで書き綴ってきたプライベートの、いわば裏面史ともいえるものだ。著者である美代子夫人はしばしばらも氏のエッセイに登場していたが、そのイメージと、本書から浮かび上がる著者そのひとの像とは、かなり異なる印象を受ける。常識的なモノサシで測れないという点ではらも氏といい勝負か、ひょっとしたらそれ以上かもしれない。

正直なところ、読み進めるのはかなり辛い作業だった。それは人の、すなわち、らも氏や著者、そしてわかぎえふ氏をはじめとする周辺にいる人々のダメなところ、いやーなところ、最低なところを間接的にいっぱい見せられた気にさせられるからだけど、著者がそれにある部分自覚的で、かつ、ある部分まったく自覚していないんじゃないかと思わせるところがまた辛い。夫婦なんだから当然といえば当然なのだけど、一人の人物を最後に獲得したのは自分だというある種の特権意識というか優越感のような心情が透けて見えるのがさらに辛い。


それでも、らも氏の作品に熱狂したことのある一読者としては、本書を読んでおいてよかったとは思う。少なくともいくつかの作品については、これまでと同じ気持ちで読むことはもう難しいんだろうなあとは思うものの。


変!! (双葉文庫)

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獏の食べのこし (集英社文庫)

獏の食べのこし (集英社文庫)

こらっ (集英社文庫)

こらっ (集英社文庫)

愛をひっかけるための釘 (集英社文庫)

愛をひっかけるための釘 (集英社文庫)

恋は底ぢから (集英社文庫)

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水に似た感情 (集英社文庫)

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人体模型の夜 (集英社文庫)

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ガダラの豚 1 (集英社文庫)

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ガダラの豚 2 (集英社文庫)

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ガダラの豚 3 (集英社文庫)

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今夜、すベてのバーで (講談社文庫)

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